注目すべきは主旨であるという良い例。
カンニングOKのテスト
昔,中学の時に面白い先生が居て,月に1回「カンニングOKテスト」と言うのがありました。ルールは「テストにA7用紙(A4の半分の半分の半分)1枚を持参してもいい。そこには表裏何を書いてもいいが,手書きのみ。印刷は駄目。テスト終了後に答案と一緒に提出すること」というもの。みんな必死に小さい字で書きこんだり消したりしてカンニングペーパーを作るのですが,これ必死に取捨選択してカンニングペーパーを作る過程で中身を覚えちゃうんですよねwでもってテスト答案返却後に優秀なカンニングペーパーを選んで印刷してみんなに配り解説をする。面白かったです。もちろん「本番には持ち込みするなよ」が合言葉です。
面白い趣向だなと思いながら読むなど。
カンニングペーパーを作る過程自体が能動的に勉強する行為になる,しかも量を制限することにより重要度の判断を身に付けることやモチベーションの維持が考えられている。
(無制限とすると,やる気が出にくくなる子が増えそうなのはなんとなーく察せられる。)
とはいえ,『カンニングOK』とすれば喜びはするものの,実際にはカンニングペーパーを作ることすらしなかったりだとか,『なんでもいいから作った状態にすること(がんばってなくはないんですけど?を見せるためだけのカンペ作り)』が目的になったりだとか,そういった懸念事項も想像に難くない。
この『カンニングOKテスト』を使用する指導者自身も,現在の場(学年や集まっているメンバーなど)によってそのテストを実施することが適しているか?を能動的に判断する必要があるだろう。
カタチだけを真似しても逆効果となることもよくあるもの。
こういったさじ加減は,同じ目的をもった同じ学年であったとしても,集まったメンバーやタイミングによって適宜判断していく必要がある。
つねにあらゆる可能性を念頭におき,決定事項だけに縛られぬようにしつつ,些末なことにとらわれすぎず大局的な見地でものごとを考えてゆきたいものだ。