最近とは。(この1週間くらいのことです。)
卒業生の保護者から1
数年前にご縁のあった子たちの保護者の方々とお会いする機会に恵まれまして。
先日は学友祭でお声かけいただきありがとうございました
個人的な話題であるため具体的な内容の掲載は避けるが,大学生活を楽しんでいること,また大学生になってからの活躍やそのニュース記事をご紹介いただき,また写真もいくつか送っていただきまして。
記事を読むと,私と全く関係ないところで活躍しているからこそ,一人立ちできていることも感じられてニンマリしてしまいます。
高校卒業後は,大学生活,就活,就職──と先のことで忙しくなり,塾講師へ連絡をとっている場合ではないことがほとんど。
私もそれが分かっているため,わざわざ連絡をよこす必要もないであろうと思う。
社会で生きていく中で感謝はなるべくあらわしたほうが良いが,感謝などは『感謝を伝えたい』と思ったときにしてもらえれば十分。
その瞬間が無ければ無いで十分である。
話をもどして。
ふとした機会に思い出してもらったり,大学入試直前にコメントを求められたり,このたびの学友祭でひさびさに巡り会えたり,突然何の脈絡もない連絡をいただいたり,こういったことがあるととても嬉しい。
中学入試と向き合う期間を一緒に過ごさせていただくこと。
『入試まで』と期間は限られているものの,その期間にあった楽しかったこと,真剣に向き合ったこと等々,まるでひとつの家族のような繋がりを感じてしまうもの。
またふとしたときに連絡をいただけると嬉しい。
卒業生の保護者から2
「あの場所で俺の人生が決まった!」と言っています。
語弊があるかもしれないが,もちろんポジティブな意で。
これも現在は大学生として過ごしている子の保護者から。
(バッチリ数年ぶりに記念撮影させていただきました。)
中学入試だけで人生が決まることはないが,人生の大きな岐路のひとつとなる子は多いだろう。
社会人になっても,特に県外へ行く子たちにとっては『高校3年時にどういった環境に居たか』はその後の人生に大きく影響しているし,『帰省したときの友人関係』についても言うまでもない。
『それだけで決まるわけではないが,それが無ければ違う道を歩んでいたかも』というできごとは,大きなことも小さなことも,それぞれあることだろう。
中学生の保護者から
中学でもポジティブに数学に取り組めているのは、ともや先生のおかげです。
いつも、ご指導ありがとうございますともや先生みたいな先生は、なかなかいないのよ。
環境の恵まれてるのよ。と、何度も話しています。
中学生の期間。
6年制・3年制を問わず,中だるみに入ってしまう子たちは少なくないもので。
その期間に大学入試で中心ともなる科目,英語数学に淡々と向き合ってゆくことは大切で。
これは私見だが,中学生にとって『目先の定期テストだけでなく,大学入試を見据えた実力をつけてゆく』という観点で学習ができる環境は,特に小都市には多くないと考えている。
『通り過ぎたら忘れてしまう』ということは往々にしてあるものだが,それを前提として,それを避けるためにどう身に付けてゆくか──という観点で授業をさせていただいている。
正多面体の描き方を忘れた際にはまたお気軽にご質問ください。()
小学生の保護者から
『塾が学校だったらいいのに』って言ってます。
これは今まで複数の方々からいただいたコメントでもある。
単純に私の授業で笑いが生じる場面が多いし,レベル()が上がってくると私の顔を見ただけで笑う子も居るので,まぁそういうコメントもたびたび出るか。
そのほか,『学校が退屈』といった文言だけがもてはやされてそれが批判される場は少なくないが,実際には『周囲の大人たちの言っていることがその場しのぎであることが明白』『意味のない指示を出される』といったことに辟易している子たちが学校を退屈に感じている場面も往々にしてあるもので。
大人だろうが子どもだろうが,単純に一人の人なのだと理解している子は特にそうかもしれない。
あとは『自分で変えられること』『自分では変えられないこと』を区別して淡々と向き合う精神が必要とされるところか。
私もやっていること全てについて漏らさず信念があるかと言われるとそうではないし,説明可能かといわれると言語化していないものもたくさんある。
が,なぜやるのか,なぜそうなのか──といった目的については,洞察可能な範囲,説明可能な範囲で,なるべく理解のできる語彙を用いて,大局的な説明,具体的な事例を交えつつ,問答しながら対話してゆくことは大切にしている。
『そういうもん』で済ませておくこともあるし,習熟度に合わせて説明のレベルも変化させてゆくこともある。
ともあれ,塾で過ごす中で『人生にプラスの影響を与える学び』があれば幸いである。