国語軽視について思うこと

Posted on 2019年12月13日国語軽視について思うこと はコメントを受け付けていません

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授業が始まる前にこれだけのページビューを稼げたこと,いつも閲覧してくださる皆様に感謝!

おかげさまで,今後はそれほどPVを気にせずがんばっていけそうだ。

「入試問題の国語の問題の解き方」等については,今回の記事ではヒントにならないし,どちらかというとこれから学習をすすめていく低学年へ向けての記事である。

広大附属福山中入試の国語は,易しいことが多い。

だから,国語の指導はいらないという声を聞くこともある。

国語の指導は必要無いのだろうか?

科目としての国語

「国語」を英訳すると,「Japanese」。

すなわち「日本語」だ。

(正確には「National Language」だが,日本国内での「国語」と限定させていただいた。)

「日本語」の学習ならば,授業での学習に限らず,日常生活のすべてが学習ともいえる。

高校では,「現代文」「古典(古文・漢文)」を学習する。

中学校では,「読解」の他,「品詞(名詞・動詞…など)」や「文法」を学習する。

小学校では何を学習するのだろう。

文字について

低学年の間は「あいうえお」など日本語の文字や言葉を学習し,学年が上がるにつれ,新たな漢字を覚えてゆく。

教科書によって順序は異なるものの,何年生で何の漢字を学習するかまで,すべて決められている。

新課程では4年生で「都道府県の漢字」を全て学習するようになったことも話題になった。

知っている漢字が増えると,本を読むスピードも上がるし,文章の理解も早くなるし,知っている言葉(語彙)も増えるし,自分で書くときにも誤解の無い表現を使いやすくなるし,…たくさん知っていて損になることは無い。

むしろ,日本で生きていく上ではあらゆる漢字が血肉のごとく役に立つ。

塾では,受験までに早めに漢字の学習を終えるところも多いことと思うが,私は漢字の学習を二重にやることについては懐疑的だ。

「漢字学習の時間」は学校の漢字ノートでも毎日のように行われており,二重に負荷を課すよりも,「語彙力」にフォーカスした学習をするべきなのではないかと考えている。

読み物について

小学校では, 「モチモチの木」や「大造じいさんとガン」など,同じ題材を数日にわたり,「登場人物の気持ち」や「感想」など,意見を出し合いながら学習していく。

足並みを揃えて学習するためスロースピードではあるものの,中には「読み物に触れる機会が極端に少ない」子もいるため,読み物に触れ,さらには深く読み解く機会が与えられることは大きくプラスになることと思う。

一方,塾用教材では,ひとつの読み物を何日もかけて学習するのではなく,「どんどん異なる読み物を読み,その題材についての設問を解いていく」といったスタイルのものが多い。

私は,たくさんの読み物に触れ,そしてその題材それぞれについて詳しく考えてゆく機会を提供してくれる塾用教材は,子どもの学習にとって非常に良いと考えている。

同じ文章を読んでも,本来筆者が伝えたい意図とは全く違う内容を読み取ってしまう子も多い。

子どもたちにとって,文章の読み方の学習になるし,文章自体から学ぶことも多い。

それだけではなく,私にとっては,子どもがどういった考え方をしているのかを学ぶ機会になる。

算数のように「1回の学習でできることが広がる…!」といった実感はしづらいかもしれないが,ずっと続けていくことにより日本語の力が身についてゆく科目だ。

だから,入試直前期にはないがしろにされがちではあるものの,早いうちから読み物には慣れ親しんでおきたい。

書くことについて

小学校では,読み物ほどではないけれども,「書くこと」にフォーカスした学習もある。

だけど,添削には非常に時間がかかるため,なかなかまとまった学習は難しいように思う。

塾では,「適性検査対策」として作文の講座などを行うところがある。

だけど,こちらも大人数を相手に添削するため,的確なアドバイスを的確な回数行うのは難しい。

もともと書ける子であれば,アドバイスの回数が少なく済むし,そもそも周辺中学の入試科目としての作文も「作文が書ける」ということが大切であるから,そこまで細かいことは重視されないのだろう。

当塾では作文講座は設けないが,要望があれば,添削については適宜行う予定だ。

話すこと・聞くことについて

小学校の教科書でも学習するが,実際には日常会話での学習のほうが多いだろう。

家庭での会話,友だちとの会話,その他の知り合いとの会話,テレビやインターネットといったマスメディアの視聴,…すべてが学習である。

塾では,教材として「話す」「聞く」といった学習をすることは無いし,例え間違った表現であっても話の腰を折りそうな場合には子どもの間違いを指摘しないこともある。

だけど,講師側は「食べれる」といった「ら抜き言葉」, 「選べれる」といった「れ入り言葉」 を使わないよう正しい表現を用いるべきであるし,間違った日本語は避けるべきであると考えている。

伝統について

小学校では,「俳句」や「能」などの日本の伝統について学習することもある。

これは,それ自体が何かに役立つというよりも,日常の様々なものに今も繋がっているものが多いから,「一般教養」として知っておくべきといったところだろう。

塾では国語でわざわざ触れる場面はあまりない。

まとめ

国語の学習は,すべての学問に繋がる大切な学習である。

特に「読解」については,多くの読み物を読み,真剣に考えることによりじわじわと力が身についてゆく。

すぐに効果が出るといったことは少ないが,多くの「読解問題」に触れることは,教養としてずっと役に立つ。

ただし,「語彙力」が無いと,知らない言葉が出てくるたびに思考が一時停止しがちだ。

だから,「語彙力」,すなわち「言葉」をたくさん身につけてゆくことも将来につながる力になる。

国語の専門家の方のほうがもっと良いことを言えるのだろうなぁとは思うが,私が考えているのはこんなものだ。

今月本屋に行くと読みたい本がたくさんありすぎて「時間はいくらあっても足りないのだなぁ…」と実感。

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