A.「わかりません。」
Q.「間に合いますか?」
または,「いつなら間に合いますか?」
よく尋ねられる質問である。
この話題については誤解を恐れずハッキリと答えを述べると…。
これ,もう「わかりません。」としか言えないんですよね。
収集した事実から分析したことは言えるのだけれど。
誠実に答えようとすればするほど,バイアスがかからぬようドライに分析すべきものだし,感情や雰囲気だけで述べるべきことではないと考えている。
会って間もない子については,例え成績を見せていただいたとしても,「間に合わない」とか「まだ間に合う」とか,そういったことは私にはわかりません。
とんでもなく学力の高い子でも,当日次第の試験もあるので。
なぜわからないのか?
私の能力が不足しているから…と言われればその通りかもしれませんが…。
1. 子ども本人が受験する年の出題内容が具体的にわからないことには,間に合うかどうかはわからない。
受験の合否結果は,「子ども自身の学力」と「当日の問題」とのすり合わせだ。
だから,例えば「2019年の出題であればこの子は何もしなくても合格できたね」といえることもあれば,「2016年の出題であれば今からやってもそもそも間に合わなかったね」となる可能性もある。
中学受験は,高校受験のような内申点の積み重ねではなく,当日の実力勝負である。
試験当日が終わったあとであれば,「あの出題であれば,このタイミングからでも間に合ったかもね」と言えるかもしれないが,それは未来予知というものだ。
2. 子ども自身の学力のほか,性格・性質・健康状態・感情の波・成長(二次性徴)など,要素が多すぎる。
子どもたちにある程度似通ったパターンはあるかもしれないし,目安となるものはあるかもしれないが,人により異なる部分が多すぎる。
(とはいえ,入試直前には合格可能性は予測しています…。これについてもバイアスがかからないようなるべく感情を交えず淡々と冷静に分析します。不謹慎なのでオモテには出しませんが。)
3. 今までの具体例。
間接的,直接的を問わず私が見てきた中で述べるならば…。
入試前の1か月半で間に合った。
小学1年生から進学塾通いしたが間に合わなかった。
…どちらの子も存在する。
「何年生からやれば間に合う」方式は基準や目安をあまりアテにせず,子ども本人の性質と向き合うほうが建設的だ。
子どもひとりひとりについて知る
とはいえ,「わかりません」ではあまりに無責任すぎることは重々承知している。
そのため,成績資料,ふだんの授業中の様子,宿題への取り組み方,コミュニケーションの取り方,日常生活,感情,…さまざまな要素について,ひとりひとりを詳しく見つめてゆく。
すなわち,「何を教えるか?」よりも「誰に教えるか?」に主眼を置いているということ。
私がいつも子どもたちについて「全科目指導」をしたいのはこのためでもある。
常に子どもたちの性質を考えながら授業を組み立ててゆくので。