毛利先生との雑談

Posted on 2019年12月18日毛利先生との雑談 はコメントを受け付けていません

以前一緒にお仕事をさせていただいていた,毛利先生と再会。

福山市内のファミレスにて近況を報告しあうなど。

(髪が…。)

毛利先生

毛利先生は,同い年ではあるのだが,中学校の教師,いくつかの場所で塾講師,…をされていたこともあり,はっきり言って私より経験が豊富である。

学校で仕事をしていたことは,内申点の付け方などを生で体験してきているわけだから,大きな財産になることだろう。

毛利先生はいくつか転職をしているため同じ職場で働いた期間は短かったが,指導方針には共感することも多く,私と同じく「議論(ディベート)することにより,いろいろな考え方を尊重し,またより良いものを導き出す」といったことが好きであるので,気が合う。

(「アウフヘーベン」と言いたいけれど,数年前に流行り廃りの波にのまれてしまい,言葉の価値が下がっているように感じる…。)

講師としての方向性は,私が中学入試のスペシャリストであるのに対し,毛利先生は国語という科目のスペシャリストだ。

だから,私に足りないものをたくさん持っているし,議論せずとも学ぶところが多い。

また,教育に対する熱量は大きく,「授業を楽しんで,子どもの意欲を引き出す」といったこれから求められている学習の在り方の部分も私と共通している。

できるならもっと一緒に仕事をしたい先生であった。

現在は他の職業に就かれているようだが,こういった熱意のある先生にこそ,教育現場に立ってほしいものだ。

繰り返しになるけれど,私と同じく「議論が好き」といった姿勢は,私にとってはたいへん好ましい。

議論好き同士からすると,議論はお互いの意見を尊重しあい,物事をより良い方向へ向かわせる手段に過ぎない。

だが,日本の社会では単なる「口論」と受け取られることが多い。

はたから見ると「トラブルを起こしている」と捉える人も多く,悲しいかな「トラブルメーカー」の烙印を押されてしまう原因になってしまうのだ…。

古い日本的な組織では,議論や会議とは「事前の根回しにより結論が決まっていて,全員揃っている場でそれを承認するだけの儀式」という位置付けになることも多いとか。

これが「良い」のか「悪い」のかは個人の判断に委ねられるだろうが,私は「それは議論とも会議とも言わないだろう」という立場だ,

話はそれたが,「今後の教育の在り方」についてマジメに議論することのできる先生はなかなかいない。

毛利先生との議論は,これからも大切な財産となっていくことだろう。

再会できたのは幸運だった。