シーザーサラダは無関係。
視座を合わせる
コミュニケーションは難しい。
恒に思っていることだ。
ピンポイントな話から入られると,まず「何の話なのか?」の確認からせねばならないことも多い。
話がズレたまま進行することを防ぎ,誤解せず解釈するため,なるべく確認するようにしている。
会話をしているはずでも,「自分の言いたいことを言っているだけで,傾聴はしない」といった場面にも出くわすことがある。
私も「言いたいことを言いたい」といったことはよくあるけれど,そんなものはSNSに垂れ流しておけばよい。
誰かがそのつぶやきを拾ってくれて会話になることもあったりなかったり。
相手を拘束してまで「言いたいこと」など事務的な連絡などくらいだろうか。
そんな程度。
が,一度「会話する」となったならば,「何の話をしているのか?」「どういった視座で話をしているのか?」「意図は何か?」をお互い汲み取ってゆく必要がある。
ある程度の洞察はできても,やはり自分の考えの及ばない内容であったり,認識を誤っていたりするもので,確認をはさむ。
私の場合は「会話」というより「相談」を受けることが多いため,視座を合わせ,なるべく多くの解決策を見出し,提案してゆくといったことが多い。
子ども相手の教育をしているため,無意識に行うことが常態化しているのかもしれない。
ここで困るのは,「自身が相談する立場での会話」だとか,「持論の展開を重視する相手との会話」である。
前者の場合,なるべく「何の話で,いくつの相談があるか」から入るようにしているけれど,「相手側がミスリードしてしまうのではないか?」「前提が異なる状態で会話を続けられていないか?」が分からない。
「話通じていますか?」など失礼なことを言えるわけもない。
後者の場合,会話というより結論ありきの話になるため,視座を合わせることや誤解を解くことは困難だ。
これはもう「まぁいいか」で済ますのが最善なのだろう。
ついつい「こうこうこういうことですよ」と突っ込んでしまうことがあるのだけれど,結局「ケンカ腰」と解釈されたり,むしろ話がややこしくなってしまったり,自身の精神力が疲弊したりすることが多い。
やはりスルーするしかないのかなぁと,そんなことを考えたりしている。
(とはいえ,スルーについても「肯定」とも「否定」ともとれない,角の立たないスルーの仕方が必要になるけれど…。)