面白かった。
NHKラジオ『“超天才”集団のLittle Voices』
↑聴き逃し配信。(2024年11月23日(土)午後10:55配信終了)
結論から述べると,番組のタイトル『Little Voices』まさにその通りの内容で良かった。
マスコミの扱うIQの話題って,単なる数値自慢,または高IQ者を敵役にして打ち勝つ……といったものがよく取り沙汰されるもの。
何らかの実績を出したあとに『実はIQも高くて云々』という話題は肯定的に受け止められるものの,そうでない場では『なんだコイツ』となりがち。
このたびも先にIQの話題が出てきており,後者のような見られ方をするのではないかと不安と期待が半々な状況で聴くなど。
出だしから高IQ団体METIQの創設者幸田さんの自宅訪問からでトばしてるなぁと思いつつ。
METIQのメンバーの普段の雑談の様子など,ホントに普段の感じそのものをラジオリスナーとして聴いている状況が面白かった。
幸田氏『IQって単なる推論能力なんですよね』
↑この解釈と開示ありがたいなぁと思ったり。
推論能力が高いがゆえに,その推論は単なる推論であり間違うこともよくあるという本人の謙虚さが求められるものだと私も考えている。
私の場合,推論により途中で話の腰を折ってしまうこともしばしば。
もっと自制せねばなと思う日々である。
推論能力とは何か。
たとえば,『家のドアが開く』→『誰かが帰ってきたのだろう』といった推論は誰しも『推論しよう』と思って推論するわけでなく,自然と行っていることと思う。
こういった推論を自然に用いる方向が通常より多岐にわたり,また通常より深いということなのかなと考えている。(もちろん他者の脳内は覗けないので,通常との比較は対話などにより確認するほかないが。)
昨年だったか一昨年だったか,JAPAN MENSAの元議長がTV番組で『IQは単なる処理速度』と仰っていて,『それは違うのでは……』と違和感を覚え,またその回答をややザンネンに感じていたもの。
というのも,IQの測定ジャンルがいくつかあり,もちろん処理速度も含まれてはいるものの,高IQ団体のテストについては推論能力(推論内容にもテストごとにジャンルがある)を点数化する形式のものがほとんど。
IQ自体がどの検査の数値について述べているかにもよるのだけれど,処理速度は群指数のひとつであるから,処理速度の低い高IQ者ももちろんいるわけで。
金丸氏『スティーブン・ホーキング博士が言ってたらしいんですけど「IQを自慢するやつは負け犬だ」っていう言葉。思い出したんですよね。世間に対して自分の価値を感じさせることができないときに,「自分はIQが高いんだ」なんて話を持ち出したくなっちゃうんだよなっていう。僕はその気持ち分かるんですよね。「愚かの谷」っていう風に僕は個人的に呼んでるんですよ。「愚かの谷」。あの「不気味の谷」ってありますよね。あのコンピューターグラフィックスが中途半端に発達したときに,人の動きとか表情が不気味に見えちゃうあれなんですけど。あれと同じような感じで,中途半端に発達した僕くらいの人間だと,その「愚かの谷」にはまっちゃうんですよね。たとえばですけど,僕は自分がいいと思っているやり方とか考え方があって,それと違うやり方の人に出会うと,反射的に「あ,その人間違ってる」って思っちゃうことがあって。それもう,もう「愚かの谷」にはまっちゃってますよね。だから仮に僕がIQが高いんだとしたら,その力で「どれだけ人を肯定的に見ることができるか」とか「どれだけ謙虚になれるか」みたいなことが,チャレンジになると思います。自分に対する戒めみたいなもんですけど。』
↑このコメントとても良かった。
後半の「愚かの谷」の話題から言及すると。
『自分と違うやり方・考え方に気付く』は誰でもあると思うのだけれど,そのときに『自身の考えが浅いだけで,自分の考えの及ばない範囲の前提があるのかもしれない』『目の前のものごとの成否にかかわらず,今後の信頼関係のためにも自制すべきか』『自身の見ているゴールと他者の見ているゴールがそもそも異なる可能性がある』などと思い至り,どれだけ自身の行動を抑制できるか。
この考え方は私にとって自分にとても近いなと感じ,またそれを言葉にできてしまうことに脱帽。
前半の「自分はIQが高いんだ」に言及すると。
IQ界隈には『ぼくはIQが高いんだぞ!』を恒久的に発信し続けちゃう人は居るもので。
ただ,『ぼくはすごいんだぞ!』が通用するのは社会に出るまでの話で。
自己紹介として自身の経験や体験を述べるならともかく,何の努力もせず出したスコア。
IQ自体を否定するわけではないのだけれど,IQしか語ることが無い場合,中身が何もないに等しいんですよね。
私もIQ界隈の繋がりや経験・体験について話すことはしばしばあるものの,IQ自体について語ることは,もはや質問を受けたときや相談に乗るときくらい。
通常,重要になるのは『自分はどのように社会に貢献できるか』『どのような社会貢献の実績を積んできたか』であり,『ぼくはすごい』に終始している様子は見るに堪えないな──と感じてしまう。
社会に対して,または所属するコミュニティに対して,家族に対して,個人に対して,そして自身の生に対して──いったい何ができるだろうか。
こういうことを述べると自己犠牲に振り切っちゃう人も居たりするので補足すると,自分が自分を幸せに導くことももちろん大切で。
自分が幸せでいることを他者が喜んでくれることもあるから,自分を幸せにすることも社会貢献のひとつといえる。
と述べると,また曲解して自分の幸せのためなら何をしてもOKの免罪符と解釈し始める人も出てくることもあるのだよなぁ。
同じ文言を書いてもすべての人に同じニュアンスを伝えるのはかくも難しきものよな……。
(この〆で良いのか?)