文化の違い
常識の違い。
文化の違い
エチオピア北部に滞在されるのなら,食とコミュニケーションについての知識はとても重要です。人が食事をする場にでくわすと「インネブラ!(現地のアムハラ語で”さあ,いっしょに食べよう”の意)」と必ずといっていいほど声をかけられます。逆に言えば,食事をする場を見られた者は,知人であろうとなかろうと,この一種の儀礼的なことばを相手に投げかけねばなりません。
しかしながら,声をかけられた側は,どれだけ腹がすいていたとしても,うかつにこの誘いに乗ってはいけません。なんらかの建前を述べて,誘いを断ることが美徳とされます。その言葉を文字通り受け取り,誘われるままにインジェラに手をつけたらどうなるか?その人物は,非常識で浅ましい人として非難されるのです。
京都のぶぶ漬けを想起させられる。
3行以上読めない人向けに要約すると,
エチオピアでは『いっしょに食べよ?』と言われたら『いいえ』と答えなければ非常識な人というレッテルを貼られる
……となろうか。
この例では,異文化に触れるときには思わぬ受け取られ方をされることがある/作法が全く異なるといった学びもあるけれど。
今回は,異文化を受け容れる側,すなわち今回の例でいうとエチオピア側の視点で考察してみたい。
これは極端な例ではあるけれど,人は無意識のうちに人をジャッジしているもので。
常識は,自身の育った国・都道府県・町・村・職場・団体・家庭・時代によって異なるし,場合によっては個人の快不快で正しさをジャッジしてしまっていることも。
多かれ少なかれ誰しもあるものではあるのだけれど,それをどれだけメタ認知しているか,メタ認知しようとしているか……により,どれだけ相手を尊重できるかが変わってくるのだろうなと,そんなことを思うなど。
特に,家庭での常識,職場での常識,……これらが社会的な非常識であることもちらほらあったりするもので。
時間軸においても,5年前の常識がいまの非常識であったり,いまの常識が5年後には非常識であったりするもので。
それをふまえて社会的な振る舞いを学んでゆきたいね。
(私がひとところにとどまらずいろいろな位相にちょっとずつ顔を出す理由のひとつでもある。)