続・IQが20違うと会話が成立しないのか?2

Posted on 2022年9月18日続・IQが20違うと会話が成立しないのか?2 はコメントを受け付けていません

アクセス数が多かったので,情報を求めている方の参考になればと思い,続きを。

テキトーに書いただけのものなので今後情報を整理する可能性もあります。

(類似の項目があるので,いくつかまとめられるはずです。)

とりあえずたたき台的なもの。

↓前回の内容。

続・IQが20違うと会話が成立しないのか?1

「会話が成立しない」とは

何をもって「会話の成立」とするか。

この定義がまずさまざまだろう。

私の場合は,『お互いの述べていることが誤解なく伝わっている状態』がそれにあたるが,『クオリアを完全に共有することは不可能である』『言語化すると元より情報が抜け落ちる』という前提を持っている。

この視座で会話ができれば「会話が成立している」と考えている。

全く異なる視座の一例も挙げておこう。

『スムーズに受け流しができる状態』を「会話が成立している」と捉える向きもある。

この場合,「自分の話が否定されなかったか」「真実か否かではなく相手の話を否定しないようにしているか」「耳障りの良い言葉が使われているか否か」「内容よりも雰囲気やワード」が重視されるのだろうと推測される。

これは一例であるが,上記の2つの視座の者が会話した場合,話を進めてゆく上でどちらかが「会話が成立しなかった」という感触を得ることはありそうである。

私のような前者の場合『問題解決してゆくのが会話』であり,後者の場合『議論・反論が起こらないのが会話』であるだろう。

前者が後者に迎合した場合「何の問題解決にもならず,ただ言語を垂れ流しているだけではないか。これでは会話が成立していない」となるし,後者が前者に迎合した場合「なんかもめてる。会話が成立していない」となる。

「議論」「問題解決」等と「言い合い」「口ゲンカ」等の区別がつかないのかな?と私は捉えてしまうものの,「協調性」が必要な場合はとにかく「迎合」が重視されることもあるし,どちらかがより良いといったことはなく,その場によるかなとも思う。

最後にもうひとつ,『自分の主張を投げ合うだけ』というものも会話に含まれるかもしれない。

果たしてこれを会話とするか否かは意見が割れそうだが,私はこれを区分することに関心がないので正直どちらでもいい。

「会話を成立させるには」

最近つぎのような会話があった。

「最近オンラインでの人付き合いに疲れちゃって」

「環境を変えてみたら?」

「環境?オンラインの人付き合いの話だよ?」

「環境っていっても自然の話だけじゃなくて家庭環境のような意味があるよ。今は所属コミュニティや関係するクラスタ・関係を続けたい人を選択するかどうかみたいな意だった。短く表そうとしたら『環境』という語になった」

「ふつうは身の回りのことにしか使わないよ」

──「環境」が伝わらなかった。

これは私のふだんの使い方が悪かったのだろうけれど,相手に「環境」の意図を伝えられなかったことに気付き,確認したから話を戻せた。

が,今度は私が困ってしまった。

──「ふつう」とは?

──「身の回り」とは?

説明を求めるのは不粋であろう。

「これについて確認したい」「一緒に語の使い方について探索したい」という衝動に駆られる気持ちを抑え,「そっか」と答えるほかあるまい。

このあたり私の場合「一緒に確認することを楽しめる」といった相手であれば相性がよく,会話に齟齬が生じにくいとなるのだろう。

相手にとっては「細かいところをつついてこない」といった相手のほうが相性がよいはずだ。

さて,以下はあくまでも私の視座から見た「会話が成立しない」理由を一言で述べつつ,それぞれについて説明を添える。

(「言語理解」が低いこともあり冗長な説明になっていること,ご了承ください。)

1. 語彙の差

いわゆる語彙力といわれる「どの程度語彙を蓄えているか・使いこなせているか」の差はもちろんあるけれど。

単に語彙といっても「日常使いする語彙」「語の使い方」は位相(コミュニティ・クラスタ等)によって異なるもの。

たとえば広島県周辺では「背がたう」といった表現があるが,これは方言であるため地域が変われば伝わる相手と伝わらない相手に分かれる。

また,「写メ」といった表現があるが,これはもともと「写真付きで送るメール」を略して「写メール」としたサービスの名称だ。

「メ」から分かる通り「メール」を指すのであるが,メール以外にも「デバイスで写真を撮る行為自身」や「SNSに投稿する行為」「SNSを介して写真を送る行為」まで使われることがある。

「写メ」という語をこのように使う方は限られているが,このように「正式な意味ではないが誤用している方も多く,この場面ではおそらく誤用で使っているのだろう」と判断するのも語彙力によるものといえるか。

このあたりはいちいち確認すべきか否か。

もし誤謬であれば確認しなければ会話がズレるし,誤謬でないならばムダに話をそらしてしまうことになるため,臨機応変に判断する必要がある。

「語彙の差」は「会話がズレる原因を減らす」「気まずいムードを作る原因を減らす」「スムーズに会話する」という点に関わる。

2. 知性の差

「頭の良さ」を扱うのは荒れがちであるが,要因のひとつと言えることでもある。

知性が伴っていない場合,「相手の言っていることが分からない」ときに,「相手の説明が不適切」なのか「自身の知性が不足している」のか,判断がつかない。

知性の場合,「人の優劣」の雰囲気にも発展しかねず,「バカにしたいわけではないけれど,事実として相手の知性が不足している」という状況になることもある。

この場合後ほど述べる「知的謙虚さ」があれば「どういうことか」を確認することができるし,「自分はどのように解釈したか」を伝えることができる。

が,これらのひとつでも欠けてしまうと「なんだか分からない怒り」や「拒絶」が発生してしまう。

こうなるともう会話にならない。

3. 語彙の調整

内容によって語彙が豊富な側は異なる。

たとえば全体として語彙が豊富であっても「化粧品のことは分からない」とか,逆に全体として語彙力が低くても「昆虫のことなら詳しい」といったことなど。

この場合,必然的に当該話題についての知識の豊富な方が相手に合わせる。

概念や語彙を知らなければ,少ない方が多い方に調整することは不可能だからだ。

合わせるときにもどの程度まで調整するかは高い側が探ることになる。

労力は高い側に大きくかかるが,根気強く「どうしたら伝わるか」を主軸に「表現を工夫してみる」「細かく確認できる間をはさみながら話す」等,とにかく相手に寄り添う。

4. 意図を汲み取る

いかに語彙が達者であっても,日常会話で間違った表現を一切使わず,かつ誤解のない表現のみを使うのは難しいだろう。

相手が知っている表現を常に逸脱せずに会話するのも難しい。

同じ言葉であったとしても,先の「環境」の例のように読み取り方が多様な場合もある。

ゆえに,聴く側が「話し手は何を言わんとしているか」を能動的に汲み取ろうとする必要があり,これが会話でいちばん重要な点ではないか。

主旨は何なのか?に注目しているかということだ。

これさえあればジェスチャーでも通じることも多いわけである。

逆に枝葉末節にばかり注目し,揚げ足を取るようなことが目的になってしまえば会話が迷子になるだろう。

(昨今のマスメディアの報道がこの傾向を助長しているようにも見えますが……。)

5. 言い合いに持ち込まない

さまざまな場があるが,「対話」と「言い合い」の境目を意識するべきだ。

私の場合はそもそも相手が「言い合い」に発展しようとすると「諦め」を示し,こちらから会話に対して「諦める」ことが多い。

たとえば言った言わないの「水掛け論」など。

いくら自分が正しくて相手が間違っているとしても,証拠の特定ができなければあとはもう相手の主張次第となってしまう。

「『自分が正しい』は言いすぎでないか?」と思われるかもしれない。

たとえば「今日あなたはカレーを食べたでしょう?」に対して「(事実としてカレーを食べていないから)いいえ」と答えても,「いや,あなたはカレーを食べたはずだ」というように,自分が明らかに行っていないことに対する決めつけなどの具体例は経験がある。

円滑に会話するために「食べた」と述べても問題ないのだが,私の場合は整合性が取れないことにストレスを覚えるため,ここが譲れなかったりする。

ゆえに,私の場合は「水掛け論になるだけだからこの話題はここで終えよう」と提案することが多い。

ただ水掛け論になってしまう相手,だいたい感情的な行為が目立つので私とは話が合わない。

逆に相手からすれば「どうでもいいことくらい小さなウソでやり過ごせないのか」と考えられているかもしれない。

これは内容や分野の問題ではない。

6. いま,お互い話が通じているか探れる(確認)

これが単純なようでいて意外とできないものだと考えている。

「『○○って分かる?』って言えば済むじゃん」と短絡的に考えている場合は,できていない場合が多いと考えた方が良いだろう。

確認の頻度が多いことに不快感を覚えやすくなって会話から離脱する方もいらっしゃる。

・「いま話している語彙が伝わらない可能性がある」と気付けるかどうか。

・語彙自体だけでなく,流れが伝わっているか。

・確認された側は「マウントを取られた」「めんどくさい人だ」と感じないかどうか。

(確認する側が煽らずに確認できるか。)

・確認された側は「分かっていないのに分かったふり」をせずにいられるか。

・確認された側は,どこまでは理解でき,どこから理解できていないか説明できるか。

気に留めることは多いが,ポジショントークにならず,感情的になることさえなければここはクリアできるはず。

7. 信頼関係が築けている

同じ文言であっても,その意味は相手によって異なる。

たとえば塾では「お花を摘みに行ってきます」といった表現が用いられるが,これは関係を築いたあとでなければ何のことだかわからない。

また,何のことだかわかったとしても,不信感が募れば「聞く耳持たない」という状況になることもあるだろう。

ゆえに,事前に信頼関係がどの程度築けているかも関わってくる。

8. 「自分には理解できないこともある」「どのような人であっても,自身の想像の範疇を超えることが存在する」という前提をもっている(知的謙虚さ)

私にも理解できないことは多々あるが……。

そもそも自身の「能力不足」「知識不足」「経験不足」「想像力不足」等により,いまいくら話を聞いたところで理解できない内容もある──という前提を持っているかどうか。

たとえどんなに賢かったとしても,他者の背景を全て知っているなどということはないため,「背景に自分からは見えていない事情があるかもしれない」という前提を持ち合わせているかどうか。

たとえば,手塚治虫氏の漫画「鉄腕アトム」は21世紀の未来(執筆当時から見ての未来)を描いた作品であるが,アトムが黒電話を使用するシーンが有名である。

これは「電話はどのように進化しているか?」を問われれば想像してそれなりに未来の電話を想像して描いたことだろうと思うが,そもそも「電話の進化」について注目すること自体が盲点だったのではないか。

仮に「電話の進化」に注目していたとすると「電話は黒電話のまま進化しない」と想定していたことになる。

いずれにせよ,あの手塚治虫氏でさえ想像の範疇を超えてしまうことが存在するのだ。

知的謙虚さが低い場合,これらの自身の「不足」を感じた場合,単に不快に思ってしまったりだとか,いわゆる「マウントをとられた」といった感情に陥りやすい。

こうなると会話の主旨などどうでもよくなってしまい,単なる「言い合い」に発展させてしまったり。

会話するか否かよりも「誰が悪いか」に終始してしまうことも。

知的謙虚さを高めれば,知らない情報に出会った場合にはむしろ好奇心のほうが勝つだろう。

逆に「知的謙虚さ」が低い場合,謙虚さが無いがゆえに「謙虚さが低い」という事実を受け入れられず,せいぜい受け入れたように強がることしかできない

9. 客観視点/俯瞰視点を日常的に使っているか(メタ認知)

これが一番厄介である。

「客観的に見ているつもり」の主観視点,こういった人に何度も相対しもどかしい思いをした人も多いのではないか。

「アラジン」を観たことがあるだろうか。

主人公のアラジンがパンを盗むシーンが序盤に描かれる。

アラジン視点で観れば「盗まなきゃならないほど貧しい生活をしているんだなぁ」と,彼の生活の貧しさを示すシーンとなる。

パン屋さん視点ではどうか。

パン屋さんの背景は分からない。

もしかしたらあくどい稼ぎをしているのかもしれないし,逆にギリギリの生活をしながら朝早くに起きて一生懸命準備してパンを焼いて少ない利潤で小さい子を育てているのかもしれない。

人は「先に聞いた話を重視してしまう」バイアスがある。

ゆえに,自分のことであれば自分の視点で考えてしまうし,自分のことでなくても身近な人の視点でイメージを展開してしまうことは自然な流れかもしれない。

私はどちらかというと一歩引いて考えることが常態化しているため,「ああこの人は主観視点の話をしているのか」と気付けば目線を合わせることならできるが,「ご自身がいま主観視点に偏っており,客観的に見ることができていませんよ」と伝えるのはとても骨が折れる。

口にすれば相手の自尊心を傷つける可能性もあるし,そうでなくともこの視点を持つこと自体に慣れていない方も多い。

統計をとったわけではないが,いろいろな方々と話をして「主観視点から客観視点/俯瞰視点へ切り替えられない」という方は思いのほか多い。

「自分に利益誘導したいわけでなく,全員の利益になる」という論が伝わりづらいことの一因でもあるだろう。

客観視点を身に付けていない場合,「自己認識」「自己管理」を日々意識してゆき,日常的なものとしてゆかねばならない。

10. 『もし私があなただったら』レベルの差

9.の話題とほとんど同じようなものなのだけれど,分けて掲載。

「もし私がAさんの立場だったら」と思考するとき,その視点の切りかえに差がある。

いまの自分側だけが知っている情報,立場,役割,役職,資産。心持ち,趣味,指向,──これらをどれだけオフにして考えられるか。

逆にAさん側だけが知っている可能性がある情報を排除せずに考えられるか,自身のものごとの感じ方とAさん側のものごとの感じ方に差異があることを加味できるか……。

そして,時系列を当該時に調整できるか……。

もちろんAさんはAさんであって自分ではないので,憶測が多く入ることにはなるのだけれど,決めつけずに可能性のはばを残しつつ考えられるか……。

11. 事実と憶測の境界があるか

自己をメタ認知すること,これが日常的になっていないと難しいかもしれないけれど。

ふだんから組み立てている自身の推測は無意識に行われているため,どこまでが事実でどこからが推測なのか,考えている本人も気にしない。

が,どこまでが事実でどこからが推測なのかを区別できておれば,齟齬が生じる可能性を減らすことが可能。

最近Twitterで見かけた例。

SNSで「文字」として可視化されるため,「事実と憶測の境界のない方はこんなにも多いのか……」と感じる機会も多い。

(これが「決めつけの刃」か……とうまいこと言った感じを抱いていたら,検索すると結構使っている人がいらっしゃるようで。)

これも謙虚さが不足していることが重なった結果であろうか。

めんどくさがらずどこまでが事実といえるかに注意しておれば問題ないが,その確認が「めんどくさい」となれば会話は難しい。

12. 「可能性がある」「そうに違いない」の区別ができる

論理の得意な方であれば,当然のように「ひとつの可能性であり,重みづけとして何%くらいかなぁ」等考えるもの。

が,「ひとつの推測Aを立てる」→「Aに違いない」という思考になってしまっている場面,意外とよく見かける。

周囲に確認するも,自身に賛同する少数派に確認した程度で「絶対そう」のように思いこむ場面も。

こうなるともう「A以外の論はすべて自分と敵対するもの」と思い込んでしまい,会話が成立しなくなる。

「それしかない」という場合もないわけではないが,多くの場合は「それは可能性のひとつであり,せいぜい重みづけができる程度」と認識しておけば問題ないだろう。

13. 可能性が2つのみの場合以外についても認識できる

「Aではない」→「AではないならBだね」とする論。

これも多々見受けられる。

常に二律背反,「¬A⇔B」であればその通りであるが,これは場合によって異なる。

「¬A⇔B」とは,たとえばコインの表裏のように,どちらかが真であれば確実にもう一方は偽であるし,逆にどちらかが偽であれば確実にもう一方が真である場合である。

(コインが立った場合……?話がそれるので無かったことに……。)

が。

「Aではない」→「Bとも限らない」という場面は多々ある。

「今日のごはんはカレーじゃないよ」→「カレーじゃないなら牛丼しかない」……とはならない。

「その動物はキリンではない」→「キリンじゃなかったらなんだっていうの!言ってみろ!」……何なのか不明であってもキリンではないことだけが確かな場合もある。

この項目はハッキリ言って論理の問題であってキリがないため,会話が成り立たない一例としてザツに挙げた。

14. 異なるものをすべて1つの指標で考えようとしない

たとえば,最近「賢い人は分かりやすく伝える」といった耳障りの良さそうな文言が多くの賛同を得ていた。

実際には「賢くて話もうまい人」も居れば,「賢いのだけど話はうまくない人」も居るし,「賢くないけど話だけはうまい人」も居るものだ。

こういったことは小学4年生の算数で学習する表やベン図にして表してしまえば当たり前のことなのであるが,この感覚が無い場合,他者にいちいち表にしてもらわないと理解できない人も多いようだ。

要は違うものを同じ指標に放り込むことを無意識に行わないようにすること,そしてそれを認知することだ。

(こんなこと言わなくても前提として理解している方がほとんどであると考えていたが,SNSを見る限りは「賛否両論」という便利な言葉で片づけられていた。かなC。)

15. 単なる相関関係を因果関係と決めつけず,慎重に扱える

よくある例で「アイスクリームが売れると溺れる事故が増える」といったもの。

データでもこれは正しい。

が,これを「アイスクリームのせいで溺れるのだ」と因果関係としてしまうのは早計である。

実際には「暑い時期にアイスクリームが売れる」「暑い時期に溺れる事故が多い」といった「暑い」という共通項によるものと推測するのが妥当であろう。

つまり,「暑い」と「アイスクリームが売れる」には因果関係があるし,「暑い」と「溺れる事故が増える」にも因果関係があるが,「アイスクリームが売れる」と「溺れる事故が増える」は結果として相関はしているものの因果関係ではないということ。

16. 「一般論」「個人の見解」の区別がつく

「私はこう思う」「私はこうする」を「ふつうはこう思う」「ふつうはこうする」とすり替えてしまう場面,これもよく見かける。

「ふつう」はあくまでご自身の観測範囲,またはその位相での「ふつう」である。

その観測範囲が本当に「ご自身のみ」または「ご自身の周囲のごく少数のみ」の場合でも「ふつう」を使ってしまう。

「ふつう」という語を使えば「自分は多数派なのだ」という前提を含有でき,特に会話を勝敗として認識している場合は常に自分が勝者に立つことができる。

こんな場面で強引に持論が多数派であると強弁するのは論外として,ここを気に留めておけば会話は成立できるはず。

似たような枕詞として「本当に○○な人」という表現もある。

これは「私の思う」という隠れた枕詞があり,「私の思う本当に○○な人」とするのが正しい場合が多いだろう。

詳しくは「真のスコットランド人論法」を参照のこと。

主観視点・客観視点の話と重なっているかな?

17. 自己の正当化/勝敗に主眼を置いている

「自分が正しい」という主張がメインであり,内容に関心がない場合のことである。

流行りのいわゆる「論破」などがこれにあたる。

「結果として論破したかたちになってしまった」ということはあるかもしれないが,目的が論破になってしまっては,これはもう単なる口ゲンカである。

「ふつうは」で押し通す方と相関していそうに思う。(←これが個人の見解)

18. 多様性について許容範囲を広くもつ

たとえば好みについて。

自分にとってAが好きであるのに,相手から「私はAが好きではない」と言われたなど。

これはA自身を否定したわけでもなく,Aが悪いというわけでもなく,単に相手が自身の好みについて答えただけである。

が,これを「あの人はAを否定した」「あの人はAを悪く言った」と受け取ってしまう。

もちろん聞かれてもいないのに「好きではない」と語り出したらそれは「空気を読め」となってしまうかもしれないけれど。

好みを尋ねられた場合や,「Aの話題」をふられた場合にはやむなしである。

いずれにせよ「Aが好きな人もいればAが好きでない人もいる」という単純な前提があれば問題ないはずだ。

他の例も挙げよう。

ふるまいについて「勉強は座ってするべき」という常識がしみついていた場合。

ご本人の常識を変える必要はないが,「立って勉強をする」といった人を見かけた場合,「自分の常識と違うから」という理由でそれを糾弾する必要はないだろう。

「そういう人も居る」と認識すれば良いだけだ。

19. 内容と自己の同一化をしないようにする

「冷やし中華ってどう思う?」に対して「冷やし中華など食い物ではない!」と返された場合。

もちろん否定すること自体がどうかという論もあるが,それは「冷やし中華」が否定されたに過ぎず,ご自身が否定されたわけではない。

「否定」ばかりを使う人との関わりは避けたいものだけれど,ご自身が否定されたのか,内容が否定されたのかは区別する必要がある。

20. 事実判断と価値判断を混同しない。

たとえば私は「背が低い」。

これに対して「背が低くても良いところもあるから」とか「背が低いなんて自分を悪く言うなよ」とか,そういった言葉を聞いたことがある。

成人男性の平均身長は168cmであり,これに対し私の身長は157cm。

身長偏差値下位2%程度に位置する。

ゆえに「背が低い」は単なる事実である。

が,上記の返しについては「背が低いのは短所である」「背が低いのは悪いことである」という前提に立った言葉であるのがお分かりいただけるだろうか。

すなわち,

「背が低い」←事実

「背が低いのは短所」←価値

「背が低いのは悪い」←価値

……ということ。

余談だが,背が低いことは確かにデメリットのほうが勝つと考えている。

事実を話題にするだけで「コンプレックスだろ」と「決めつけの刃」を突きつけられるので,明らかにネタとして解釈してもらえる相手にしか使えないネタでもある。

この話題については,↑の話自体が「身長が低い」が「良いか悪いか」の話としてしか読み取れない人も居るかもしれない

21. 必要 / 十分の区別をつける

たとえば「『聖徳太子』は重要語句だから覚えよう」とした場合。

「聖徳太子を覚えればいいんですね!」と感じるかもしれない。

「覚えればいい」を必要と捉えているか,十分と捉えているかが問題である。

「必要」と捉えている場合→「覚えることが最低条件だし必須だな」。

「十分」と捉えている場合→「覚えていれば何があってもこれだけで十分だな」。

結果,テストで「中臣鎌足」が出題された場合,後者の「十分」で捉えている場合,「覚えればいいって言ったじゃん」という他責思考になるかもしれない。

ゆえに,大人になっても「覚えればいい?」といった文言を使う方は警戒してしまう。

そもそも「知識」はあくまで前提であって,その先に思考や組み立てがあるのだが……。

こういった単発の語などはコミュニケーションをする際や調べものをする際に媒介するものに過ぎず,本質ではないことが多いものだ。

「最悪でも」とか「最低条件」といった表現で伝わるとは思うものの,高校数学でも扱う必要/十分の概念が脳内に存在しているかで差があるなぁと感じることはある。

22. 口をはさむ頻度を控える(傾聴)

口をはさむ頻度が高い場合,主旨を考えず枝葉ばかり気にしている可能性や,自分の主張にしか関心が無い可能性が高い。

「言葉尻」でなく,「相手が何をいわんとしているか」を聴くよう意識するべきだろう。

「マシンガンのように話し続け,相手が話しているときには全く聞かない」,こういった場もよく見かけた。

23. 煽らない

これも意外と難しい。

ご本人が煽っていないつもりでも,難しいのは「客観的に見て煽っていないといえるか」「相手側から見て煽られていないと感じられるか」だ。

話し手が煽らないようにすることは当然なのだけれど,聞き手が何を煽られたと感じるかは分からない。

話し手は煽っていない「つもりの」表現を考えることはできても,聞き手にとって何が地雷なのかを事前に網羅することはできない。

「分からない言葉」を使うと「分かる言葉にしてくれればいいのに」となる可能性もあれば,「分かる言葉」を使うと「そんな簡単なところから説明するなんてバカにしてるのかな」となる可能性もある。

これはもう単なる局所的な話ではなく,信頼関係やその「場」がどんな場であるか次第ともいえる。

聞き手側があまりに短絡的な場合は話し手からの調整は難しいこともある。

私は「煽っていないと感じられる文言」を用いるのが苦手だ。

24. ズレの確認(原因の特定)

会話がズレた場合,どこでズレたのか確認すべき場合がある。

この場合「原因の特定」が必要となるのだけれど,今まで私が観測してきた中で,以下のような前提の違いがある。

「原因の特定」は将来似たような場面でのトラブルを未然に防げるポジティブなもの。

「原因の特定」は犯人探しというネガティブなもの。

このどちらのイメージが先立つかにより,不快感・会話のめんどくささを感じる場面が異なる。

私は前者であるのだが,後者の人が多いように考えている。

ちなみに自身を成長させるべき場面では,前者の思考が必要だと考えている。

後者は「原因の特定」と「罰」を切り離して考えられるか否かにかかっているのかもしれないなぁ。

これも「事実判断」と「価値判断」問題か。

25. ワーキングメモリの差

ワーキングメモリ(作動記憶),私は検査結果からも高い方なので低い方のことは憶測でしか分からないのだが。

会話の内容について,どのような内容が話されたのかを脳内にストックしてゆける量の差である。

これが低かった場合,一度に話される内容が多ければ会話がスムーズにいかないかもしれない。

たとえ低くてもこの差が小さければ,自身が小出しに理解してゆく分,自身が話す内容も自然と小出しにしてゆけるのかもしれない。

(外向・内向の差もあるかもしれないなぁ。)

26. 会話したい(感情・気分・欲・合理性)

人の行動原理は感情である。

ゆえに,そもそも「会話をしたいと思わない」「会話を成立させる必要がない」となった場合,「会話を成立させない」「会話を避ける」となる場合がある。

この場合「会話したい」「会話すべき」という前提が崩れているため会話が成り立たない。

その他勉強中のこと

つい先日(2022/9/11),MBTI®認定ユーザーの方に依頼させていただき,MBTI®について学ぶ機会がありまして。

指向の差による会話の成立要因について,もっと述べられることがあるかもしれない。

指向とはすなわち,外向・内向,感覚・直観,思考・感情,判断・知覚──の2対×4である。

ある程度勉強を終えたらアウトプットすることによる学びのためにまた書くかもしれない。

続きはまた今度。

前回同様,ノリでつらつらと書いてしまったのだけれど,今回の記事に関して何かご意見があればご遠慮なくいただければと思います。

(忙しくなければ返信もできるかもしれませんが,できない場合もございますのでご了承くださいませ。)