私が述べると『字が汚い側の論』という目で見られてしまうかもしれないが,ニュートラルにして読んでいただければ幸い。
書字の美醜
SNSで取り沙汰されていたもの。
私も話題に交ざって見解を述べたりなど。
大前提として『字は綺麗なほうが良い』,これは私もそう考えている。
多くの人が気になるのは『どの程度重要視すべきか?』であろう。
これもゼロイチで述べるわけにはゆかず,何事も兼ね合いであることを頭に入れて行わねばならない。
字が綺麗なことのメリットについては述べる必要もないと思うので,字が汚い場合に想定されるデメリットについて述べよう。
字が汚いことのデメリット
『字が汚い子はダメです』
周辺の,とある中高一貫校の教師が明言したもの。
こう明言されるくらいには,この学校では字の汚いことを嫌う文化が蔓延していることが推測される。
この学校にとどまらず,日本全体として『字は綺麗であるべき』という暗黙の社会規範があることは,私も感じ取っている。
これは文化的なものであり,『地域の誰もが字が汚い』といった文化で生活すれば全く気にならないことであろう。
が,『郷に入っては郷に従え』であろうか,それを重視されるところに行くならば,やはりそれに合わせるべきである。
前述の学校を受験するならば,字に気を配る必要があるだろう。
社会に出ても字の汚い人に辛辣である場は少なくないし,人としてナメられることも。
が,たとえ大人であっても字の汚い者が『字を綺麗に書きたい』と思っても,かなり一念発起せねば解消できないことは,これを読んでいる皆がお分かりであろう。
受験勉強中の子どもに,受験勉強に上乗せで短期間にそれを成すだけの余力があろうか。
まとめると,社会規範を重視する場合,字は綺麗であるべきといえる。
字が汚い人 と 学力
東大合格者、トップ級ほど字が汚い 林修先生の「発見」は本当なのか
林修先生によれば『灘文字』なるものがあるくらい,上位層は字が汚いそうで。
学校側の言は↓だそう。
「成績上位者には字が汚い生徒も綺麗な生徒もおりまして、どちらかに偏っているということは無いと思います」
医者の手書きカルテ,大学教授の板書,これらを見てもおそらく字の美醜は人それぞれ。
少ないサンプル数の中で,確証バイアスをもって見ていれば偏りを覚えるかもしれないが,綺麗でなくてはならないということはない。
『きちんとしている』を重視するならばこの限りではないが,学力という面のみで考えれば書字の美醜はどうでもいいといえる。
教育現場で字の汚さが嫌われる理由
私は字の綺麗さについて『こうあるべき』というものはない。
せいぜい『この学校を受ける場合は,採点基準のために字を綺麗に書くべき』だとか,『答案は区別のつく字で書くべき』といったことくらい。
字の汚さがなぜ嫌われるのか?について私なりに考えてみた。
『字が汚い場合,字が汚いだけなのか,間違った字を書いているのか判別しづらい』
→綺麗な子の採点より時間がかかる。
→適性検査の作文等であればなおさら。
『単純に読みにくい』
→読み手(採点者)の機嫌に関わる。
→綺麗であれば好意的に,汚ければ悪意で解釈したくなるのかも?(採点者の機嫌の問題)
こういったところであろうか。
字が綺麗な子のほうが『頑張っている感』『マナーを守ろうとしている感』が出て減点しづらいといったこともあるかもしれない。
ともあれ,綺麗な字を書くに越したことはないが,そこにばかり集中してしまって今何をやっているのか分からなくなるのもそれはそれで困りもの。
『綺麗なノート作りに執心するがゆえに内容を全く聞いていなかった』
これも,中高生の間でよく云われる文言である。
字が汚いまま押し通すのか,汚いなりに整えて書くのか,一念発起して綺麗な字を練習するのか──いずれにせよ本人の『こうありたい』が先に必要かなぁと思う。
まぁ『字が綺麗なほうが社会に適応するのに有利である』『学力のことであれば書字の美醜は関係ない』といった結論になるか。