積読崩し。
『日本語の秘密』
著者は川原繁人氏。
言語学・音声学者の著者が,オビに書いてある4名と対談したもの。
昨年読んだ『言語の本質』と重なる部分もあり,またつい先日読んだ『世にもあいまいな言葉の秘密』の著者川添愛先生が登場するなどし,私自身の関心の方向性に改めて気付かされる。
以下に4編の雑感を。
歌人の俵万智先生の章は音声学に関心を持つのにちょうど良い感じ。
ラッパーのMummy-D先生の章は『韻』に関する話題がおもなもので,ダジャレや語感の気持ちよさについて関心を持つのにちょうど良い感じ。
声優の山寺宏一氏の章は口蓋帆等具体的な器官の使い方と声色との対応が面白かったほか,社会的動物として人が場によって振る舞いを変えることについての内容は平野啓一郎氏の『分人』という考え方と結びつくなぁと思うなど。
言語学者の川添愛先生の章はやはりいちばん面白かった。
単純に「嬉しい」と言っても、言葉だけだといろんな情報が抜け落ちてしまうと感じます。「うれしい」という4文字にエンコードした段階で、自分の中の多層的な感情の大部分は載せられなくなる。さらに,相手に「うれしい」という4文字の情報が伝わったとしても,相手の持っている「嬉しい」という感情は,自分の感覚と違う可能性があります。
(日本語の秘密)
↑このあたりは『言語化した時点で情報量が減る』という私の感覚と似ているなぁと思いながら読んだ。
これが,ものごとを伝えるには一方向ではなく双方向であるべき大きな理由のひとつであろう。
クオリアを完全に共有することはできないけれど,できるだけ同じものを指そうとするならば書籍やテレビ番組のような一方向メディアでは難しく,リアルタイムでのやり取り,できれば表情や身体の動き,空気感があったほうが情報量は多くなる。
厳密に見れば、「猫は動物だ」と言うときと、「あ、猫に餌をあげなきゃ!」と言うときと、「猫は世界中に分布している」と言うときと、「とにかく猫を飼いたい」と言うときは、「猫」が全部違う意味になっている。
(日本語の秘密)
(意味の違いが分かるだろうか。)
塾現場で指導していると『ほとんど多くの日本語表現が多義的である』ということを考えさせられない日はないと言っても良いほどなのだけれど。
中学受験指導で毎年出くわすのが,同じ語どころか同音異義語の区別がつかない子たちがほとんどであるという場面。
子どもたちは,塾で1年,2年と過ごすうちに『音』として聞きながら『どの意で使用されているか』を場によって判断してゆくようになる。
そのほか,以下の表現も良かった。
「◯◯の理論的枠組みで研究するにしても、その根幹となる主張が正しいかどうか常に吟味しつづけるべきだ」と言っています。「◯◯がそう言っているから」ではなくて、自分の中でその背後にある論理が正しいか考え続けることが大事
(日本語の秘密)
『理解した気になる』が危険であるとは常々考えているので,この感覚は身に付けておきたいもの。
仮定から推論を立てていくこと自体は大切なのだけれど,その仮定自体を疑うことも大切。
仮定がもろいにもかかわらず,その先の推論を強固なものとして扱う場,これもかなりの頻度で見かけるなぁ。
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