【教育】イチロー氏「指導する側が厳しくできない」
常識の移り変わり。
イチロー氏「指導する側が厳しくできない」
「高校生で自分を導くのは難しい。でも、結局自分しかいなくなっちゃう。だってそういう存在いないでしょ。ということは自分に厳しくせざるをえない。自分を高めていこうと思ったら。自分に厳しくできる人間、中にはいますよ。そうするとどんどん自分を厳しい方に持っていく、厳しい道を選ぶ、それは若いうちにしかできないこと。でもそれを重ねていったら、大変で挫折することもあると思うけど、そうなれたらめっちゃ強くなる。でも、導いてくれる人がいないと楽な方に行くでしょ。自分に甘えが出て、結局苦労するのは自分。厳しくできる人間と自分に甘い人間、どんどん差が出てくる。厳しくできる人間はどんどん求めていくわけだから。うまくなったり強くなったりできる。求めてくる人に対しては求められる側もそれはできる。でも求めてくれなかったらできないから。でも自分を甘やかすことはいくらでも今できちゃう。そうなってほしくない。いずれ苦しむ日が来るから。大人になって、社会に出てからも必ず来る。できるだけ自分を律して厳しくする」
「今の時代、指導する側が厳しくできなくなって。何年くらいなるかな。僕が初めて高校野球の指導にいったのが2020年の秋、智弁和歌山だね。このとき既に智弁の中谷監督もそんなこと言ってた。なかなか難しい、厳しくするのはと。でもめちゃくちゃ智弁は厳しいけど。これは酷なことなのよ。高校生たちに自分たちに厳しくして自分たちでうまくなれって、酷なことなんだけど、でも今そうなっちゃっているからね。迷ったときに、この人ならどう考えるんだろって存在は、そんな自分で整理してこれが正解だと思うっていけないですよ、なかなか。かといってじゃあ友達にそんなこと言ってさ、それも違うでしょ。どうしてる?迷ったとき。誰に相談するの。自分の中で整理して進むしかないの?どうであってほしいと思う?厳しくしてほしいって子もいるでしょ、中には」
この言葉を読んで私が思うことをザツに書いてゆく。
厳しくできなくなったのは,指導者側からすればアップデートすれば済む話だけれど,教育される側は過去との比較などできない。
強制が消えてゆき,選択が増えてゆく。
自身を律する力の差によって,教育によって得られるものの差が広がってゆくのかなと思う。
自由には責任が伴うものだけれど,この場合,選択の自由が広がった結果,どのようなものが責任としてのしかかるだろう。
まず,強制ではなく『自分で選択した』から,責任を外部転嫁することができなくなった。
これは親世代にもいえる。
『強制すると親の責任になる』から逃れるために子どもに選択させているのか否か,常に考察し続ける必要がある。
また,どんな将来になったにせよ,『そういう選択をする人なんだ』と社会的に評価されることも責任となるか。
次に,結果論として『厳しくしてもらえれば到達できたはずのところに到達できなかった』という後悔。
これは,何らかの結果が出るまで分からないから,予測もしづらい。
最後に,『将来の自分の姿』。
これは,教育の課程で厳しくされるよりも,よっぽど冷徹な厳しさかもしれないなぁ。
何らかの結果は,自身の努力にも依存するが,何より巡り合わせに依存する度合いが大きい。
しかし,自由な世の中では,幸運だったことも,不運だったことも,誰の目にも本人の責任としてうつる場ばかり。
そんなときにも,各個人の生き様・人となりによって,社会的な評価も変わってくるだろう。
将来の自分に対し,誠実な生き方をしてゆきたいね。




