ニホンゴムズカスィネー。
『ごんぎつね』の読めない小学生たち
『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……石井光太が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状
序盤に述べられていることには概ね同意した。
たとえば,あらゆるものごとを「ヤバイ」または「カワイイ」で片づけてしまう場面を見かけることがある。
これは語彙力が不足しているがゆえに,自身がいま何を感じているか分類できない状態である。
要は感情のバリエーションが分からない。
言葉が脆弱であると,「説明できない」「自身の状態が分からない」こと,そしてそういう状態になっていることにすら気付かない。
ゆえに,すべて「怒り」として発露してしまったりするもの。
幸いなことに私はいまそういった方々との関わりは持たないが,そういった場があることは存じている。
『ごんぎつね』に関する内容
――どんな授業だったんでしょうか。
石井 この童話の内容は、狐のごんはいたずら好きで、兵十という男の獲ったうなぎや魚を逃してしまっていた。でも後日、ごんは兵十の家で母の葬儀が行われているのを目にして、魚が病気の母のためのものだったことを知って反省し、罪滅ぼしに毎日栗や松茸を届けるというストーリーです。
兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。
展開したい論は理解できるのだけれど。
いま,葬式に手づくりの料理をふるまう文化の残っている家庭がどれだけあるのだろうか。
コロナ禍になり,衛生面についてはより一層厳しくなっている中,死体を煮沸するという発想はあながち想像の外とは言えないのではないか。
多文化理解が進む中,むしろ冠婚葬祭などは様々な様式があることを前提に持っているからこそ出てくる回答なのではないか。
ふだんの自分の常識を捨てて考え,『ごんぎつね』の舞台を想像できないという前提に立てば,そのような発想があってもおかしくないのではないか。
わざわざ先生が尋ねてくるということから,深く考察すればするほど発想として出てくるのではないか。
……と違和感を覚えてしまった。
記事の要旨とは関係なく単なる一例であったため,この部分がどうかは問題にならないかもしれない。
が,インターネット,SNSが身近になり過ぎたがゆえに,同じクラスの子どもたちですら「位相」がバラバラで,「位相」により常識などが異なるため,世の中のほうこそ「常識だから」は通用しなくなっているのではないかと感じる。
ゆえに,今後はより一層相互の前提の確認はなるべく行ってゆくべきではないかと思う。