【国語】”れ”足す言葉
最近違和感を覚えることがあり。
”れ”足す言葉
選べれる。
行けれる。
読めれる。
飲めれる。
どれも文語としては適切でないとされる表現である。
広く見れば言葉の遣い方の多様性として受容すべきか否か論になるところであるが,それは本記事の本旨ではないのでさておき。
今回はペーパーテストなどにおける表現,標準語と認識して妥当か,という点で扱いたい。
『”れ”足す言葉』がなぜ妥当ではないか。
国語で学習する『可能動詞』について考察した経験があれば自明ともいえることで。
そもそも先述の動詞のように『れ』を付ける場合,言葉に『可能』の意を付加する意図で付けているはず。
(もちろん意識・無意識を問わず。)
それぞれ,『選ぶ』『行く』『読む』『飲む』という動詞に『可能』の意を付加しているつもりなのだろう。
しかし,それらの語には,すでに『可能』の意を付加した動詞『選べる』『行ける』『読める』『飲める』という語が存在しており,”れ”を足すまでもなく『可能』の意は含有されている。
つまり,”れ”足す言葉は,可能動詞+可能の助動詞という構造になっている。
こういった二重構造は,間違いではないけれど適切とはいいがたい,特別な意図を含めたい場合でなければ妥当ではないとしたいところだ。
さて。
どうして最近これに違和感を覚えたのか。
私は日常的な人付き合いがオンラインであったり,オンラインで知り合った人とのオフ会であったりすることが多いもので。
日常的な趣味にweb記事の閲覧や読書もあり。
偏った表現よりも,標準語に近い言葉遣いを見聞きすることが多い。
(私自身が標準語遣いかどうかはさておき,『広島の人にしては言葉遣いが丁寧すぎる』と指摘されることはちょくちょくある。『広島の人』というくくりで見られる場合には偏見の目が存在することがあるようだ。)
そんな中,親族で集まる機会があり。
口頭で対話していると,先述の『”れ”足す言葉』が頻繁に使われていて気になったもの。
(その親族を貶めるのが趣旨ではないので注意。)
そういえば,中学の同級生であり,現在福山市内の美容室で店長を務めている友人も『”れ”足す言葉』をよく使っているなぁと,そんなことが脳内で繋がる。
実際に調べてみると,おもに近畿・中四国で見られる方言だそうで,他の都道府県でもちらほらあるそう。
つまり,備後地方の口頭の談笑において”れ”足す言葉が使われた場合,日本語の誤りなのか,方言なのかの区別はないといえる。
ともあれ,好むと好まざるとにかかわらず,人はふだん接している人たちの使用語彙を自然と吸収してゆくもの。
周囲の大人も使用する表現にはつねに気を配りたいものだ。
私は日常的に文を添削し続ける身であるため,つい気になってしまった。
国語の指導を行っている身であるため,あまり自身の使用語彙として取り入れたくない表現だなぁと思いつつも,話者に対して上からものを見るような態度を出さぬよう注意したいところだ。