今でこそ国語や社会の指導をしているが,学生の頃はどちらも好きではなかった。
だが,今はどちらの科目も好きだ。
その理由のひとつを以前書いたこともあるが,他にも好きになる機会はあった。
指導するために学ぶこと
社会という科目に対していちばん貪欲になったのは,中学1年生の社会の指導をあずかったときだろう。
現在,福山市の公立中学校では,中学1年生で世界地理と歴史の前半,中学2年生で日本地理と歴史の後半を学習することが多い。
私も指導するときには,まず世界地理から指導していた。
小学校の地理の学習では,ほぼ日本地理しか学習しない。
だから私の世界地理の知識は,ほぼ中高生の頃の知識で止まっていた。
だからこそ,指導するためには,必然的に「学校の教科書」「塾用の教材」「インターネットで得られる情報」を使って「自分の知識を更新」したのだ。
(例えば,「リアス式海岸」や「高床式倉庫」といった語句については今は「式」を用いないとか,オーストラリアの「エアーズロック」は,昨今はもっぱら「ウルル」とよばれているとか,世界一の鉄道トンネルが「青函トンネル」から「ゴッタルドベーストンネル」になったとか,「ニウエ」のように日本が認めている国が増えているとか,…等々。授業に使うか使わないかの取捨選択はまた別。)
「授業に興味を持ってもらうための材料は何か?」
「記憶に残りやすそうなネタはあるか?」
「重要なものに絞るとどれか?」
「質問された場合,自分は答えられるか?」
こういったことを考えながら自分の知識をアップデートしていく作業は,非常に楽しい。
何より「新しいことを知る」ということ自体も楽しければ,「子どもたちはどういう反応をするだろう?」ということを想像しながら授業を組み立てていくのは非常に楽しい。
また,何より「自分が知っているはず」と思っている知識でも,「質問された場合,どのように答えるか?」を想定することにより,「実は詳しく知らない」といったことが多い。
だからこそ,「指導する」ためには「子どもたちよりも本気で学ぶ」ということを必然的に行うことができた。
子どもたちどうしで教えること
子どもたちどうしでも,やっぱり「教える」ことにより,自分の知識が不確かだった部分に,自分から「気づく」ことができる。
また,「教える」というアウトプットをすることにより,より記憶に定着しやすくなる。
だから,教えてほしい子がいた場合には,積極的に教えることは,相手のためだけでなく自分のためにも大きくプラスになる。
もちろん「1番の答えは『あ』だよ」などという記号の答えをダイレクトに教える行為のように明らかな例外はあるけれど…。