某大手予備校講師の言葉が良かった。
科目を絞らないほうが成績が良い
SNSで見かけたもの。
たとえば,私が教えている駿台予備学校のデータで,「5教科受験の生徒」と「3教科受験の生徒」の「3教科の成績」を比べると,「5教科受験の生徒」のほうがよい。本当は教科を絞ったほうが成績は上のはずですが,結果は逆になっています。
教科同士はちゃんとリンクしていて,ある教科がほかの教科に対して「有効性ゼロ」ということはない。まるで関係なさそうな分野でも共通因子が潜んでいる。
成績優秀な生徒たちは,センター試験の現代文問題を,自分で答えを書くとしたらどうするかという姿勢で解いています。選択肢同士を比べて答えを出すというテクニックは使っていない。むしろ,面倒なことをやっています。
東大文系受験者は数Ⅲを学ぶ必要はないですが,勉強している子のほうが成績がいい。困難を抱える子のほうが伸びるのです。
この言葉には私も大きく頷く。
大島先生について調べていると,↓のwebページを見つけた。
- 教科の枠を取り払った学習をするよう勧める。勉強とは物事の繋がりに気付くこと、繋がりを作ることであり、「人生の中に勉強があるのではなく、勉強の中に人生があるべき」という信念を持っている。
- 授業では、ある一つの汎用的な思考システム、各教科を統一的に解釈するためのメタ視点、手法の存在を示唆することがある。また、勉強はリンクをつくることでもある、とたこつぼ型の学習をしている受験生を頻繁に啓発する。
- 具体例としては、化学・英語・古文の構文などの有機的なつながりを示唆、ないし列挙することが挙げられる。
- そうした学習で得た知識を用いて、英語長文で既知の内容が扱われていることが解ったら積極的に内容を先読みし、読解に詰まったときなどに推理をすことをすすめる。(文系の学生にとっての歴史、理系の学生の自然科学など)
- これを「知識の密輸入」と称する。授業ではこれの失敗しやすいパターン等も紹介される。
私の場合は,たとえば中2数学で『平面図形』を学習する際には『平面図形の性質についても学習するけれど,「論理」を学習する単元である』という旨を伝える。
要は,局所的に何を学んでいるのかと,大局的に何を学んでいるのか,この双方を伝えたりする。
単なる国語の読解問題であっても,文章で述べられていること自身が学びになるし,地域や時代の文化を学ぶこともあれば,客観的な視座を獲得してゆくといった,文章自体とは全く関係の無さそうな学びもある。
学術的な場であっても専門分野を横断することはたくさんある。
たとえば,世界史を専門的に扱う考古学者の書籍を読んでいると『炭素年代測定』などは当然のように出てくるが,これを扱うには化学の分野の知識や経験が必要になる。
私の場合はいかにも『勉強』というものだけが勉強という感覚はさらさらなく。
お遊びを通して学ぶこと,逆に勉強にお遊びを混ぜること,これらを大切にしている。
お遊びを通して学ぶにしても,『これを通して学ぶぞ』という気構えも必要なく。
遊んでいる間に学びが得られれば良いと考えている。
以下は私事だが……。
いま取り組んでいるとあるプライベートなイベントへの準備にしても,お遊びに真剣に取り組んでいる。
よくよく振り返ると,『知識習得,観察,仮説,試行,評価,再現』といったプロセスを何度も辿っており,『いまやっているお遊びは科学の姿勢そのものだなぁ』という共通点に気付き,それが面白いなと感じるなどしている。