「もうで」や「徒歩」と聞くたびに,徒然草第52段「仁和寺にある法師」の「徒歩(かち)より詣でけり」を思い出す。
子どものころに国語の授業で学習したことでも,印象に残っているものは覚えているものだ。
この段では「すこしのことにも,先達はあらまほしき事なり」と締めているが,こんなに短い文章で説得力のある教訓が読めるのだ。
「徒然草」がもてはやされるのもうなずける。
糸碕神社
今年は初めて三原市内,糸崎にある「糸碕神社」 へ。
今まで馴染みが無かったのだが,調べてみると教養になることが多い。
この神社は道路を挟んで瀬戸内海に面していること,広島県内で最も古い神社といわれること,本因坊秀策の石碑があること,それから万葉集に三首が詠まれていること…などで有名であるらしい。
初詣の必要性
私自身は無宗教を公言するほど宗教とは無縁でいたい人間だ。
なぜ初詣へ行くのだろう?
いくつか理由はあるが,ひとつは「季節の行事を感じること」だろう。
国学ではないが,日本古来の行事を容易に体感できるイベントなのだ。
体感できる教養がこんなに身近に味わえるのだ。
罰当たりと言われるかもしれないが,無宗教の人間としてはほどよい距離感だと思っている。
ふたつめは「感謝」だ。
2019年はさまざまなできごとがあった。
「挫折が人を成長させる」とはよく言ったもので,新たな出会い,新たな船出をすることができた。
目に見えることだけでなく,「ものの考え方」が大きく変化した年でもあった。
そういったかたちで成長ができたことへの「感謝」をしに行ったのだ。
この「感謝」というのは相手が居なくても良い。
誰に伝えたいわけでもない,ただ「感謝がしたい」という思いがあり,それをアウトプットする場として神社へ行ってきたのだ。
身の回りには恩を売っては「感謝」を強制する人もいるけれど,私はそういったものとは距離を置きたい。
「ありがたいことだな」と思ったときに,相手が居れば相手へ,相手が居なければ何物でもない天または大自然といったものへと「感謝」をしたい。
スピリチュアル(笑)な物言いかもしれないが,「感謝」というものは,行為よりも気持ちが大切であって,その気持ちこそが人を成長させるものだと考えている。
道の駅「神明の里」
久しぶりに三原バイパスにある「神明の里」へ。
夕方に通りかかったので,糸崎の夕日を見たくなったのだ。
糸崎から見える海は,四方を島に囲まれているせいか,まるで湖のように見えるのが美しい。
現在三原バイパスの終点となっている糸崎。
降りるときにはいつも「しまなみ海道」,因島大橋がよく見え,とてもきれいだ。
(通るときは毎回運転中なので写真は撮れないが…)
こういった美しいものや自然に対する「畏敬の念」は,心理学的にもプラスの作用があることが分かっている。
遠出しなくても,いつでも見に行ける場所に「畏敬の念」を感じる場所をもっておくことが,生きていく上で大きくプラスになるだろう。
(海から1km以内に家がある人は幸福度が高い…なんて研究もあるくらいだ。)