もともと好きなので…。
日常会話より書いて表現するほうがラク。
情報を出し過ぎ
「情報を出し過ぎでもったいない」
ちょくちょく言われることだ。
自分でも出し過ぎだとは思っているし,「発言せずに情報をもらったり,揚げ足を取って批判するだけ」のほうがよっぽど安全だ。
昨今は,オモテに出て目立とうものなら,モノカゲからひっそり批判する人の的になってしまうことも多い。
なぜ情報を出すのだろうか?
情報を出すこと
教育に携わることで社会貢献する。
これが私のやりたいこと。
だけど,塾は場所により通える方と通えない方がいるし,個人では対応できる人数も限られる。
だから,ローカルな中学受験の情報を求めている方へ情報を提供したり,私の塾で「できること」と「できないこと」をはっきりさせたりすることには大いに意味があると考えている。
また,個人塾にとっていちばん難しいのは,「知ってもらうこと」と「人柄を分かってもらうこと」だ。
情報を出し惜しみした結果誰にも気づいてもらえないというのがいちばん悲惨。
ある程度損することはあったとしても,「知ってもらうこと」「人柄を分かってもらうこと」ができれば,大きなプラスである。
「人柄」についてはどんな人間だろうが「相性が合う合わない」があるし,事前に自分の人柄をオープンにすることにより,「長期間通ったけれど,相性が合わなかった」といった双方にとっての悲劇をある程度防ぐこともできる。
(個人で無いならば,相性が合わない人からでもどれだけ利益を搾り取るか…という視点もあるかもしれないが…。大手塾と違い,個人塾は「悪いウワサ⇒死」なので。)
また,オープンにした情報であっても,私自身の考えも時とともに変化するものもあるし,わざと本心を出さず当たり障りのない表現を選ぶこともある。
だから,いずれにせよ最新の私の考えやデータは,常に私と接している方にしか分からない。
(すでに,このホームページ内でも古い記事のうちいくつかは,「このときの自分の考えはちょっとな…」と思うこともある。毎日更新しているブログなので,そのあたりは受け取り手に任せても良いかなぁと。もちろん誰が見ても訂正すべきだろうという情報は訂正しております。)
毎日書くこと
「毎日書くの大変ですね」
こういった意見も聞く。
私自身はあまり苦では無かったりする。
「あまりにノりすぎて,長くなってしまう」とか「表現に迷って時間をかけてしまう」といった困ったことはあるが,書くこと自身が「好き」なのだ。
大学生のころから社会人になるまで,4年ほど,ほぼ毎日mixiに日記を書いていた。
今見返すと恥ずかしいものが多いが,昔の文章を見ることにより,自分の文章表現の変遷に思いを馳せるのも面白い。
何より「自分の考えをまとめながらアウトプットする」ことにより,自分自身がいちばん勉強になる。
自分の書いた情報を見返すことも多く,それにより間違いに気づいたり,推敲する材料にすることもある。
「うぬぼれ」と言われるかもしれないが,自分の情報がいちばん頼りになる。
これは,自分の考えは「大勢が言っているから」という考えではなく,「自分で調べたり考え抜いたりした結論だから」という部分が大きいだろう。
(日常的なことでも,「『ふとんたたき』でふとんをたたく人がいるが,効果があるのか?」や「社会人ならば『新聞』をとるべきなのか?とるとしたら1社のみなのか?」,「このニュースの書き手の見解はこうなっているが,結論はその方向になるか?」など…。)
ちなみにブログのネタを思いつくことがいちばん多い場所はお風呂だ。
お風呂から上がってあれこれやっている間に,メモする前に忘れてしまうことが大半なのだが…何とかしたいものだ…。
こういったときに,if-then planningをうまく使えれば良いのだけれど…。