『解像度が高いですよね』といわれることがあるので考察。
考え方の解像度
『ものごとの捉え方の解像度』としたほうが良いかもしれないが,『捉える』だと虫でも捕まえにいくのかと誤読されそうだったので,タイトルは『考え方』のほうに。
子どもたちの指導をする中で,特に作文の添削をするとよく分かるのだけれど,『考え方の解像度』は同学年でも大きな差がある。
いま最も求められている能力のひとつでもある。
具体的な説明が難しいなといつも思っていたもの。
太陽光発電
これは『解像度の違いの具体例』として扱うものであり,太陽光発電の是非について論じるのが主旨ではない。
『太陽光発電』問題,数年間取り沙汰されている。
ここで解像度の高低が見てとれる。
解像度が低い場合,『太陽光発電は良いもの』──これで終わり。
解像度が高い場合,『太陽光発電のメリットとデメリット,それから設置する環境との適合性についてひとつひとつ検討してみよう』となる。
↑メガソーラーの利用とその効果。
↑はいわゆるメガソーラーが環境破壊した例。
↑これもメガソーラー
数字で見ると,
そこから生み出される電力量は1年間で740万キロワット時の見込み
同じ電力量を生み出すために、出力100万キロワットの原子力発電所なら7時間24分稼働すれば事足りる
この差が分かるだろうか。
要するに『太陽光発電でどの程度賄えるか』『太陽光発電と発電量の関係だけでなく,設置することによる環境負荷・メンテナンスがどのようになるか』等,思考しているのか──ということである。
解像度が低い場合,これを読んでなお今度は『太陽光発電は悪いもの』──これで終わりとしてしまうのだろう。
ものごとを分解し,また多面的に考え,そのバランスや代替手段等さまざまなことを繋げた上で,個々の事例に対応して考える──これがどの程度できるかが解像度にあたるのかなぁと,そう考えている。
解像度が低いと,『小手先の知識』や『誰かが出した結論』ばかりに頼ることになってしまうのかなぁと,そう思う。
教養を蓄えれば蓄えるほど,思考する経験を積めば積むほど,ものごとのつながりが分かり,また普遍的なものであるのか,それとも単なる推論や自論であるのか──の区別もつくようになってゆくだろう。
(まぁ,私も関心の低い分野,かつ確認できる情報ソースが少ない分野に関してはそうならざるを得ないのですが。)