珍しくサクっと読み終えまして。
「凡人が,天才を殺すことがある理由。」
この本には元ネタとなるブログがあるそうで。
それが↓。
凡人が、天才を殺すことがある理由。ーどう社会から「天才」を守るか?
これらのことを,読みやすく書かれている本だった。
私が前回記事を書いてからちょっと期間が空いているが,実際に読んでいた時間自体は短い。
また,この元ネタブログに対する反響も載せてあった。
それが↓。
【続編】天才を殺すのは、実は「秀才」ではないか?等への回答10選
中でも「天才が殺されるまでの『3つのステップ』」について,何度か味わったことがあるのでよくわかる。
こういう表現はできれば使いたくないのだけれど,私は自身がこの本で言うところの「天才」に近いと思う。
だからこそ,「論理」で殺してくる秀才に対して「論理」で防衛するために「思考の言語化」について常に意識しているし,「共感」で殺してくる集団に出会わないためになるべく「個対個」での人付き合いをすることにしている。
「共感」に訴えて事実を捻じ曲げるのって,非常に容易いのですよね。
事実について語るときに,自分の気持ちを乗せたり,憶測を断定のように語ったり,自分に不利な内容を述べないようにしたり,さまざまな捻じ曲げ方がある。
対立派閥を作られては「なぜこんなバレバレのだまし方をするのだろう?浅はかだなぁ。」と疑問に思っていても,平気でだまされる方が続出する。
派閥を作る方が集団を形成し始めたときにはもうどうしようもないことが多いし,よほど自身を理解してくれる方が周囲にいなければ,息の根を止められるのを待つだけだ。
派閥を作る方も,悪意でなく無意識であることもあるだろうから,余計救いが無い。
社内政治や集団政治には関心がなく,ウンザリするばかり。
集団において「派閥づくりが始まったな…」と思えば,自分一人でできることといえば,あとは距離を取るだけだ。
ちなみに…。
私は教育や心理に強い関心をもっていることもあり,おそらく「Y(認知)」タイプだと自己認識しております。