信教の自由。
正式名称 国
社会の出題でよく見かける『正式名称で答えなさい』。
たとえば,『中国』ではなく『中華人民共和国』,『韓国』ではなく『大韓民国』──などの解答を求める出題である。
これについては常々疑問をもっている。
『語句』は情報を伝達・共有するため,または自身で調べものをするために用いるものであり,『通称』あるいは『その位相(文化・コミュニティ等)で使われる表現』が分かれば良いと私は考えている。
これが『イギリス』となると正式名称は出題されない。
『グレートブリテンおよび北(部)アイルランド連合王国』なんて,いわゆる『ふつう』であれば雑学やクイズ王の類の語句と認識される。
この違いは何か。
おそらく『教育現場では長年そういう認識だから』といったそんな理由が推測される。
中国や韓国は近いから!つながりが深いから!という理由もあるのかもしれないが,無意識的に社会が受容しているのは前述の理由だと考えている。
名称の問題か否か
理科の場合,単に呼称でなく研究により変わったものも多いのではないかと考えている。
たとえば『消化と吸収』で学習するなかで出てくる『グリセリン』が『モノグリセリド』と変更されたもの。
中学時点,しかもこの単元の中では『グリセリン』と『モノグリセリド』は単なる呼称の問題との違いが分かりづらい。
高校化学まで学習すると,先述の2つは別の物質であることは明らかであり,それはたとえ生物の範囲であっても名称変更の必要があるよねということになる。
社会の場合,単に『呼称の違い』であることが多いかなぁと思う。
正式名称 歴史
では歴史の語句ではどうか。
以前ブログで取りあげたこともあるが,『寺子屋』。
教材には『寺子屋』と記述されているため,無難な表現として『寺子屋』を使用することには議論の余地はないように思う。
が,『寺小屋』という表現を使用することをヨシとするか否か。
これは意見が割れる。
公立高校の入試において,ある自治体では正解とし,ある自治体では不正解とすることがあった。
ここから分かるように,結局採点基準作成者の規範次第である。
歴史について深く学んだことがある人であれば分かると思うのだが,歴史上の記述は,時代や筆者によって表現が全然違うことは枚挙にいとまがない。
ゆえに,『正式』など求めるべくもなく,『こういった表現もあるし,ああいった表現もある。まぁこの場ではこれが通称かな』という程度のものがごまんとある。
ゆえに,教育現場での通称と一般的に正式とされる名称が異なるものもある。
たとえば『八幡製鉄所』などは良い例で,正式には『八幡製鐵所』と表現するようだが,児童を対象とする教育現場では『八幡製鉄所』を用いる。
これは『鉄』が小学3年生で学習する漢字であることや『鐵』が旧字体であり学習漢字ではないことによるのだろうと考えられる。
国語の話にはなるが,漢字は字体をいくつかもつものがたくさんあるし,教育現場と学術的な場での表現が異なることも多々ある。
某広大附属福山中の出題では語句を問うよりも選択肢による出題が多いが,その理由のひとつはこのような多様性受容によるものだろう。
選択肢として出題することで,正解であるはずの記述を不正解とするような理不尽な採点を避けることができる。
多様性の受容
社会の語句ではないが,『図書館』を表すものに『圕』という漢字がある。
読みは『としょかん』。
これは通常使われる表現ではないが,間違いでもないので『×』をつける理由は『ふつうは使わないから。採点基準作成者が知らなかったから』といったものになろうか。
語句の採点をするためには出題者が無意識的に多様性を拒絶,すなわち『正しくても自分の知らないものは×』としていることになるだろう。
要は『私の求めている解答を答えてね』ということだ。
学習段階では複雑さ回避のためにそのような指定や取り決めを先に行っておく必要がある場合もある。
が,入学試験ではどうかなぁと,そんなことを考えている。
『絶対的な解答が存在している』といった考え方や,『で,解答は何なの?』という思考を放棄した考え方が染みついていると,このあたりの話は通じないのかもしれない。
『自分が普段づかいするものは常識,自分が普段づかいしないものは常識ではない』としている人はあまりに多いよなぁ……。
余談
『ラムサール条約』は正式名ではありません。
『特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約』が正式名です。()
(正式正式と言い出すと,それはもうその国の言語での表現といったところまで突き詰めねばならないのでは?と考えています。『アメリカ合衆国』じゃなくて『United States of America』が正式名称であり,『アメリカ合衆国』はそれを和訳したものにすぎないのでは?と。)