メガシンカしてソーラービームでも撃つんやろなぁ。(違います)
鹿児島「メガソーラー火災」の特異性
鹿児島「メガソーラー火災」の特異性 発生から12日、爆発で負傷者も「放水できず自然鎮火待つしかない」対応の困難さ浮き彫り
↑ニュース記事。
火災では消火活動のための放水ができず、自然鎮火するまで20時間以上を要した。爆発により消防隊員が負傷するなど、太陽光発電施設で災害が発生した際の対応の困難さが浮き彫りとなった。
防関係者も「リチウムイオン電池は、通電中は水分が加わると感電や爆発の恐れがあるうえ、蓄電施設の物は大型で、水をかけるなどの消火活動はできず、自然鎮火を待つしかなかった」と対応が困難だったことを説明した。
太陽光発電をしょっちゅう槍玉に挙げて申し訳NASAもあるが,分かりやすい事例としてネガティブなニュースが多いなぁ。
『エコバッグがなぜ自然にやさしいのか?』
『リサイクルがなぜ良いこととされるのか?』
『自然にやさしいとは一体どういうことなのか?』
こういった話題を塾でも問題提起することがある。
塾での場にかかわらず,詰め込み学習に終始してしまっていたりとか,『なぜ?』が『決まりだから』とか『エコバッグがエコなのはエコバッグだから』で思考停止している場面に遭遇することは少なくない。
これからの『ものの捉え方』の学習という意味合いもあるが,目の前の入試問題の題材でも,このようなものごとの判別がついているのかどうか,受験者の解像度はどの程度のものか──を試す出題を見かける頻度も高くなった。
少し前は地域の最上位の学校以外ではあまり見られなかったものが,中堅校でも当然のように見られるようになったなと感じている。
こういったものごとは小手先でどうこうなるものでもなく,また『話者』『筆者』の言わんとすることを受け容れる土壌が必要であるとも感じる。
これは前提として共有されている知識や体験もであるし,自制心や傾聴,他者受容の観点もある。
現代の受験はペーパーテスト偏重であることは旧態依然としているかもしれないが,その内容は社会性にも深く結びついている。
(話の方向性はこれで良いのか?)